A Jafelin Helten、趣味のため。
歴史に大きな足跡を残した人物に関する記念は、とりわけ重要なものとして受け止められる。また同時に、同時代や後の世代の歌い手たちに与えた影響という点からも、その意義は大きい。
このサイトではそうした出来事を常に重視している。数日前、編集長ジャフェリン・ヘルテンと、独特あるいは失われかけたニュアンスの普及に貢献したカンタオールたちについて考えていた際、アントニオ・エル・アレネーロの名が挙がった。彼女が深く敬愛する人物であり、彼は理論的な側面にも貢献しただけでなく、トリアーナのカンテを守り伝えた存在でもあったからだ。
そうした考察の中で、フラメンコがしばしば基準となる人物、つまり後の世代の手本となった人々を忘れてしまう脆さについても話が及んだ。そこから、今日アントニオ・エル・アレネーロを再評価する責務が生まれた。彼の生誕100周年は見過ごされてしまっており、セビージャやフラメンコ界に大きく貢献してきた著名なトリアーナ出身者、エミリオ・ヒメネス・ディアスを通じて彼を知った。
グアダルキビル川で砂を運ぶ仕事をしていたことから「エル・アレネーロ(砂運び)」というあだ名を持つアントニオは、トリアーナのソレアの継承者とみなされている。その音楽的遺産はチケテーテなど著名な歌い手にも受け継がれた。また彼は、すでに45年以上前の時点で、それまで識別されていなかったトリアーナ独特の旋律を愛好家に気づかせた人物としても高く評価されている。
若い頃は、父アントニオ・エル・ルビオの息子であったことからエル・ルビオ・アレネーロと呼ばれていた。1925年4月13日、トリアーナ地区カスティージャ通り111番地で生まれた。この地域にはカルメン・フロリード、マノリータ・ペレア、マティルデ・アドルナ、トゥデラ家なども住んでいた。幼少期には父やガルフィーアスのカンテを学び、成長後はダビの店、エウロヒオの店、マノロ・エル・デ・ロス・ブーロス(1947年以降はカサ・マリオ)、自宅の向かいにあったチャピーナ広場のカサ・セレスティーノ、あるいはカスティージャ通りのホアキニート・バジェステーロスの店などで友人たちのために歌った。1967年に亡くなったホアキニートに対しては、後にソレアでこう歌い称えている。「ホアキニートは亡くなった / ホアキニート・バジェステーロス / ソレアを歌えば / 世界一だった」
当時は、エル・ソルディージョ、マノロ・オリベル、ホアキニート・バジェステーロス、ニーニョ・セグンド、エミリオ・アバディア、エル・セルニカロ、ドミンゴ・エル・アルファレーロといった、まだ未開拓の時代の歌い手たちがいた。彼らはトリアーナのスラーケ(陶工たちの仕事場)に集う精鋭であり、そのソレアはトリアーナ地区の輝きを象徴していた。アントニオはその中で、気品があり、親しみやすく、共感力のある人物として歩んでいた。1952年4月に結婚したカルメン・ペルディゴネス・インファンテもそう認めている。2人の間には3人の娘と5人の息子、計8人の子どもが生まれた。
では本題に入ろう。アントニオがギター伴奏で初めて歌ったのは、マノロ・ブレーネスとともにラ・コチェーラでのこと。その後、パコ・パレホが主宰した有名なテルトゥリア(フラメンコ愛好家の集い)、アルファレリア通りのラ・ソレア・デ・トリアーナ(かつてのバル「エル・リンコン・トリアネーロ」)で人前で歌うことに慣れていき、1976年11月6日、カスティージャ通りのアストリア映画館で本格的に頭角を現した。このときは、パコ・パレホとエミリオ・ヒメネス・ディアスが主催したトリアーナのエル・ソルディージョ(実際はベレス出身)へのオメナヘ公演であった。
プロとしてのデビューは1979年6月9日、カマスで開催されたラ・パニョレータ・フェスティバルである。友人でありトリアーナ出身の作家・詩人エミリオ・ヒメネス・ディアスの支えもあり(この名は必ず言及すべき存在だ)、その後はペーニャでのリサイタルや文化週間にも出演した。さらに重要な作品として、仲間のエル・テタやマルケス・エル・サパテーロとともに録音したアルバム『ラ・トリアーナ・デル・スラーケ トリアーナのカンテ(La Triana del Zurraque. Cantes de Triana)』(Hispavox, 1982)がある。この作品にはアントニオの未発表のソレアは収録されなかったが、彼の自己紹介ともいえる歌を聴くことができる。「俺はアレネーロと呼ばれてる / 食べてきたパンは / 一粒一粒 / 川の底から稼いできたものだからだ」
≪アントニオ・ゴンサレス・ガルソン、すなわちアントニオ・エル・アレネーロは、『ソレア・デ・トリアーナの幸せなブッダ』と私の敬愛するアンヘル・ベラ・ニエトが名づけた人物である。彼は2004年7月3日に亡くなり、その遺体はセビージャのサン・フェルナンド墓地に葬られた。(…)ソレア・アルファレーラによってすべての人の尊敬を勝ち取っただけでなく、それまで見分けられなかったトリアーナの旋律を人々に認識させた功績によっても記憶されるべき存在である。≫
前述のLPには、アントニオ自身によるソレア・デ・トリアーナへの個人的な寄与が収められている。エル・キノのスタイル(「シ・ア・ティ・テ・クイエレ・トゥ・マレ(Si a ti te quiere tu mare)」「コヘ・イ・ディレ・ア・トゥ・マエストロ(Coge y dile a tu maestro)」「クアンド・パソ・ポル・トゥ・プエルタ(Cuando paso por tu puerta)」「エン・エル・ケレール・ノ・アイ・ベンガンサ(En el querer no hay venganza)」)、エル・ソルディージョ(「アキ・ロ・ケ・コンベニーア(Aquí lo que convenía)」「アイ・ジャ・セ・アパガ・ジャ・セ・エンシエンデ(Ay ya se apaga, ya se enciende)」)、そしてノリエガ(「トゥ・ヌンカ・アス・テニーオ・ロパ(Tú nunca has tenío ropa)」「シエンプレ・コンプランドテ・ジョ・ペイネス(Siempre comprándote yo peines)」「エン・ラ・カピージャ・デル・カルメン(En la Capilla del Carmen)」「ジョ・テンゴ・クアトロ・ミル・レアレス(Yo tengo cuatro mil reales)」)などであり、これらはおそらくエミリオ・アバディアに由来するものと考えられる。
このレコードでは、かつてタベルナで行われていたようにギター伴奏なしで歌う習慣がまだ十分でなかったことも感じ取れるが、ホセ・ルイス・ポスティーゴの伴奏のもとで、アントニオは決定的にプロとしての地位を確立することになる。さらに1989年にはRTVAの番組「ラ・プエルタ・デル・カンテ」に出演し、セビージャのビエナルやマドリードのクンブレ・フラメンカといった重要な舞台にも登場した。
また、夏のアンダルシア各地のフェスティバルにも参加し、麦わらのチロル帽をかぶった姿が印象的だった。1997年8月30日のトマーレス・フラメンコ・フェスティバルや、1998年初頭に文化協会エル・トゥルニュエロによって創設された第1回カンテ・フラメンコ・コンクール「ラ・ソレア・デ・トリアーナ」が彼に捧げられたほか、ビジャヌエバ・デル・アリスカル、ペーニャ・トーレス・マカレナ(1980)、すでに消滅したペーニャ・エル・マナンティアルの仲間たちからも顕彰を受けている。
トリアーナの音楽を継ぐ魅力的な継承者であった彼は、夏は船大工(自分の船は「テオ」と名付けていた)、冬は砂運びとして働いていた。またシギリージャにも取り組み、特にマヌエル・モリーナ(「レバンタテ・マリア(Levántate María)」)、ビエホ・デ・ラ・イスラ(「コレ・イ・ディレ・ア・ミ・ニーニョ・クリート(Corre y dile a mi niño Currito)」)、ラ・ホセファの転調(「ア・ウン・トロ・デ・プラサ(A un toro de plaza)」)などのバリエーションを歌った。さらに、フアン・エル・ペラーオのマルティネーテ、アントニオ・デ・ラ・カルサやビスコ・アマーテ、ルセーナのファンダンゴ、さらにはアントニオ・ラペーニャ、マリア・ラ・モレーノ、フリホーネスのブレリア・ポル・ソレアまでレパートリーに持っていた。伴奏者としては、前述のポスティーゴやマノロ・ブレーネスに加え、リカルド・ミーニョ、マノロ・ドミンゲス・エル・ルビオ、キケ・パレーデス、アントニオ・カリオンらが支えていた。
彼が広めたソレアのスタイルには、音楽的な拍に厳密には従わないものの、各節のつながりにおいて穏やかで柔らかな表現をもつものがある。例えば、ピネア(「ノ・テ・メタス・コン・ラ・ネナ(No te metas con la Nena)」「メ・アクエルド・デ・ミ・マリア(Me acuerdo de mi María)」「シエンプレ・コンプランドテ・ペイネス(Siempre comprándote peines)」「アキ・ロ・ケ・コンベニーア(Aquí lo que convenía)」)、ラモン・エル・オジェーロ(「ソルド・コモ・ウナ・タピーア(Sordo como una tapia)」「ロス・セレーノス・デ・トリアーナ(Los serenos de Triana)」「ディセン・ケ・エ・ロバーオ・ウン・カリス(Dicen que he robao un cáliz)」「ペルミタ・ケ・ア・ティ・テ・ファルテ(Permita que a ti te falte)」「アウンケ・トダビア・テンゴ・エン・ミ・カマ(Aunque todavía tengo en mi cama)」)、アレネーロ・ビエホに帰されるもの(「ケ・パ・ケ・タント・ジョベール(Que pa qué tanto llover)」)、エル・ソルディージョの2曲(「コレ・イ・ディレ・ア・トゥ・マエストロ(Corre y dile a tu maestro)」「キエン・テ・ア・アブラーオ・マル・デ・ミ(Quién te ha hablao mal de mí)」)、ラ・アンドンダ(「メレシーア・エスタ・セラーナ(Merecía esta serrana)」)などがある。
さらに付け加えるなら、マルケス・エル・サパテーロがアルバム『フラメンコ・イ・ウニベルシダVol. XIV (Flamenco y Universidad Vol. XIV)』(2013)で再構成したバージョンも記録しておくべきだろう。そこでは7つのスタイルに分類され、「エスト・シ・ケ・エス・コサ・グランデ(Esto sí que es cosa grande)」「アンダ・ディシエンド・トゥ・マレ(Andas diciendo tu mare)」「ロス・セレーノス・デ・トリアーナ(Los serenos de Triana)」「トゥ・ヌンカ・アス・テニーオ・ロパ(Tú nunca has tenío ropa)」「エン・エル・ケレール・ノ・アイ・ベンガンサ(En el querer no hay venganza)」「クアンド・ジャメス・ア・ミ・プエルタ(Cuando llames a mi puerta)」「ソルド・コモ・ウナ・タピーア(Sordo como una tapia)」といったバリエーションとして提示されている。
つまり彼は、カバ・デ・ロス・シビーレスのソレアを自身の代表的なカンテとし、スラーケの象徴とも言える歌を体現した人物であった。その後トリアーナを離れ、セビージャのサン・ディエゴ地区に移り住み、視力を失う中で表舞台から退き、プロとしての活動を終えた。
アントニオ・ゴンサレス・ガルソン、通称アントニオ・エル・アレネーロ。「ソレア・デ・トリアーナの幸せなブッダ」と、私が敬愛するアンヘル・ベラ・ニエトに名づけられた彼は、2004年7月3日に亡くなり、セビージャのサン・フェルナンド墓地に葬られた。それから21年、そして生誕100年を迎える今、改めて記しておくべきことがある。彼はソレア・アルファレーラによってすべての人の尊敬を勝ち取っただけでなく、それまで見分けられなかったトリアーナの旋律を人々に認識させた功績によっても記憶されるべき存在である。